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青と緑の躍動する村 ~恩納村~
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ホーム » 恩納村を知る » 村の歩み » 昭和15~昭和20
| 年代(昭和) |
人口(人) |
村長 |
こ と が ら |
| 15. |
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長嶺 安心 |
保安林大造成事業が昭和9年から始まり、昭和15年で終了、その功績として、帝国治山治水協会会長から表彰され銀杯を受ける。 |
| 16. |
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戦時、食肉需給調整を図るため、養豚者に対し、豚肉の供出制度が施行され、それに伴い豚籍簿の整備により、強制供出が実施されるとともに自由売買と、とさつが厳禁された。 |
| 16. 5/ |
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村長選挙に現役の長嶺安心氏が後進に道を開くということで、當山正堅氏に決定された。当時の村長選挙は、村会議員によって選挙されたものである。 |
| 16. 8/ |
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當山 正堅 |
當山正堅村長就任。 林産業組合販売事業の一環として、県産聯工場製の樽板材を用いて砂糖樽(黒糖120斤詰)の製造を農業倉庫で行ない、村内の需要を充たす。 |
| 17. 3/ |
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太平洋戦争に突入。 |
| 17. 7/ |
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第9回県会議員に當山正堅(57才)当選、大政翼賛会。 勅使小倉侍従が銃後の日の丸作業状況及び名嘉真伊武部原耕地整備事業並びに保安林造成事業を視察される。その時、休けいされた森(下袋原)がその後侍従森と呼ばれている。 |
| 18.12/ |
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農業団体統合法案が第81帝国議会で成立し、農業団体法の公布、施行に伴い、各農業団体は一つの農業会に統一され、恩納村農業会と名称を替え、会長に大城保光氏就任。 |
| 19. 4/ 1 |
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(イ)戦争を勝ち抜く為には、上意下達を徹底させる必要から、三百戸以上の字は、二分する様、知事の命に依り、字恩納から南恩納を行政区として分離する。区長に佐渡山安祐氏就任。 |
| 19. 4/ 11 |
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(ロ)恩納村国民健康保健組合が厚生省から認可され、保健婦二名を配置し、保健業務を開始する。 |
| 19. 5/ |
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字前兼久マガイ原に、かんがい溜池及び排水改良事業を行なう。 |
| 19. 8/ |
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戦斗配置の為、日本軍の一個連隊が恩納村に配置され、連隊本部を山田校に置き、駐屯後は軍民一体となり、陣地構築、防空壕構築、並びに飛行場建設等の杭木伐採に徴用され、僅な余暇と留守番の老幼の僅少労力を以て増産に励み、食糧には不自由なく軍向け供出もことなく軍に協力する。 |
| 19.10/ |
5,839人 |
10月10日の大空襲で避難並び、他市町村からの避難民受入準備作業に入る。 |
| 20. 3/ |
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敵機来襲で軍の足手まといにならぬよう住民は、全員山に避難させるよう軍から下命され、直に当時の区長を通じ、かねて準備してある防空壕に避難させた。その後の防空壕生活は、連続の空爆、機銃掃射、艦砲射撃で恐怖と身動きも出来ない毎日の生活を続けて来た。 |
| 20. 4/ |
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遂に米軍は、南恩納以南各所の海岸から上陸を開始、その事実を知るや住民は右往左往なす術を知らずその状況は惨たんたるものだった。幸いにも吾が村は、大森林の山があるので、予て構築してあった防空壕その他、各人思い思いの場所に避難するよう伝達した。当時、山での避難生活は、想像に絶するものがあった。山生活の期間中毎日のように多数の人々が米軍に捕虜され、石川、金武、羽地村、宜野座等の収容所に分散収容され、8月頃迄にはほとんど収容された。 |
| 20. 8/15 |
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太平洋戦争終戦。 ここに記しておきたいことは、当時、恩納岳に駐屯して居た友軍の員数は400人、恩納村民が5,000人、恩納村に避難して居た他町民が5,000人位居たが、日時がたつに従い中南部の戦況が不利になるにつれ、軍民の避難者が各戦線から逃げのびた者を合せ、数日中には、2万余に達する一大非難所と化し、その為、日1日と食糧の欠乏を来し、密林の中で激しい生存競争の生地獄と化した時に避難、恩納字民特有の美徳を発揮し、同胞愛を以て自分達の持物や田畑に残る食糧等を分け与え励まし合いした為、他町村民の避難者を感激せしめた。それに、今次大戦に於いて名誉の戦死をとげられた故、島田知事の功績の一部を記して置き度い。氏は、戦争勃発と同時に沖縄県知事に任命せされ、死を覚悟に単身赴任せられ、赴任と同時に戦時食糧確保の為、台湾に飛び空海の危険をもかえりみず其の目的達成に尽力強力な交渉の結果、確保に成功したと聞く。其の功績は沖縄県民として、後世に忘れることの出来ない特筆すべき事項と思慮する。 其の米が、恩納村に3,000袋の割当配給があり、其の半分の1,500袋が恩納村に保管され戦争中字民は、勿論避難民もこのお米があったからこそ終戦まで生き延びて居たことは事実であり、恩納村民として、ひいては、沖縄県民の恩人であると思考せらる。 (大城保光氏記) |
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